そして群青な愛となる

 


大学生のころ、俺はずいぶんとくだらない生活を送っていたと思う。
仮にも誰かに「学生時代、何して過ごしてた?」と聞かれたら、俺は「スマホゲーム」とでも答えていたかもしれない。
そんな俺に友達と呼べる相手もいるはずもなく、一人暮らしは仕送りとアルバイトで生計を立てていた。
学校では比較的まじめに授業を聞いて、家にかえったら迷わずパソコンを開いてさ、
要するに、俺はつまらない人間だったんだ。
自分でもそれはよく分かっていた。俺はこんなつまらない人間のまま死んでいくんだろうなって。
だけど、そんな男の人生にも、過去を懐かしむくらいの出来事はきっとひとつくらいはあるはずだ。
そうだな。レンタル彼女、とやらを聞いたことある人はどれくらいいるだろうか。

あれは、たしか夏休み前のことだったな。俺はその日かなりまいっていたんだ。理由は単純だった。
「悪い。講義ノート貸してくれよ」なんて、昼休みに軽々しく言ってきた同じ学部の男が原因だったんだ。
俺は、喋ったこともなかったソイツにしぶしぶノートを渡したんだが、
あろうことか返ってきたノートは数ページほど抜け落ちていたわけだ。
大きくため息を吐いて「まいったな」と俺は言った。やっぱり、お互いのことを知らないという状況は、どうにもまずかったらしい。
教室を出る前に友人たちをゲラゲラと笑うソイツを眺めて、俺はもういちど息を吐いた。

帰り道、俺は気分の晴らし方について考えていた。
都合のいいことにアルバイトの給料も入ったばかりだった。
お金に関しては問題ない。あとは使い方次第だ。
カラオケにしろ、映画にしろ、ゲームにしろ、一人で遊ぶことはいくらでもできる。
だけど、その日の俺は「もっと違うことがしたい」と思っていた。
学生生活の限られた夏休みがもうすぐそこまで迫っている。
俺は誰かに後ろから追いかけられるように、なにかに駆られていたんだ。

そんなわけで何をするか困っていた俺の目に、ぐうぜんにも、“レンタル彼女”とやらの広告が目に止まったわけだ。
iPhoneをいじって広告画面に飛んでみたんだが、
どうにもこれは“お金を払って女の子に彼女になってもらう”という娯楽だそうだ。

《デートプラン》
・ランチデート … ランチを恋人といっしょにたべませんか?
・お出かけデート … ショッピングもOK! どこかへお出かけしましょう!
・オリジナルデート … 自分で決めたデートプランで遊びに行くことが出来ます
《料金体系》
1時間 5000円~(指名によって料金変更がございます)

高いな、と即座に思った。
例えばの話だが、1時間と5000円を与えられたとして、
女の子とデートをすると言う目的のためだけに、それを使ってしまうものか?
「もっと有意義な使い方があるだろう」と考えてみたものの、それはそれでパッと思いつくこともなかった。
せいぜい美味いものを食べたり、近くのユニクロで服を買ったりしてさ、
だけどそれが特別したいわけでもないんだよな。
一人でやりたいことなんてお金も時間もいらないんだよ、俺の場合は。
所詮、俺はつまらない人間だったわけだ。まあ今に始まったことではないけどさ。

「いいさ、別に。5000円くらい」とぶつくさ言いながら、俺はサイトの会員登録を済ませ、それからデート申込をしてみた。
だが、ここで問題が発生した。
どうにも、このレンタル彼女というものは、指名するのにもお金が必要になるらしい。
「ふざけんな、ちきしょー」と文句を垂れた俺だったんだが、隅の方に小さく書かれていた“指名しない場合”という項目に気付いたんだ。

《指名料について》
指名しない場合、指名料の発生はせず、代わりにこちらからお客様のニーズに合わせた“レンタル彼女”を派遣いたします。

なるほど。うまいことできている。
俺からすればどんな子が来るのかもわからないまま、下手をすれば5000円と1時間をドブに捨てる可能性もあるってことだ。
で、まあ、それからさんざん悩んでみたんだが、結局、俺は博打を打つことにしたんだ。
もとより、ただの暇つぶしみたいなものだったからな。
これまでの俺を考えてみても、あんまりにも理想すぎる女の子がやって来ても、
きっとなんにも話すことが出来ないまま1時間を過ごすことになるだろうからさ。
そういう意味でも、これがいい選択だろって思ったんだ。

メールを送ってからは、すこしだけドキドキしてたな。
たとえレンタルであったとしても、1時間だけ自分に彼女が出来るんだからさ。
もちろん、どんな子が来るんだろうっていう期待もあった。
とてつもないモンスターが現れたとしたら、どうすればいいんだろう。
デートで何をすればいいんだろう。何を話したらいいんだろう。
そういう心配をしていた俺の元に一件のメッセージが届いた。
内容はとても簡潔に、場所と時間だけが記されていたんだ。
『15:00に、駅前に来てください』

15:00になって、駅前にいったとき、
俺はキョロキョロとあたりを見回していたな。
一応、俺の服装は向こうに伝えてはいるんだが、
相手の姿が分からないと言うのはやっぱり怖いもんだ。
そわそわと落ち着きないそぶりを見せながらも、俺はベンチに座った。
それで5分ほど経って、一人の女が俺の前に現れた。
「さっきメッセージをくれた方に間違いないですか」
その一言で、俺は顔を上げた。

簡潔に言えば、その子は、とても白い肌の女の子だった。
顔はずいぶんと整っていたと思う。髪も長い。無造作に伸ばしているのかもしれない。
女の子は、やや猫背で灰色のカーディガンの袖をまくっていた。
「パンダって呼んでください」と女の子が言った。「はい?」と俺は聞き返した。
「ハンドルネーム、みたいなものです」
「はあ、そうですか。パンダが好きなんですか?」
「本名が嫌いなんです」
「……はあ」
よくわからんな、と俺は思った。

「今から、何をするか決めてるんですか」とパンダは言った。
「いや、なにも」と俺が答えるとやけに嫌そうな顔を見せた。
「1時間で出来ることなんて限られてるでしょうに」
どさりと俺の隣に座ると、足を組んでそんなことを言った。
「うさ晴らしに使ったんだよ、いいだろ別に」
「まあ、私はなんでもいいですけど」
パンダは、やけにドライな女だった。
あくまで俺たちは彼女なはずなのに、恋人であるという実感がさっきからまったく感じられなかった。

「手とか繋げたりする?」俺はパンダに尋ねた。
「ああ、接触は別料金ですね。3000円かかりますよ」
そう言って、右手を開いてこちらに差し出した。
「……無料で出来ることは?」
「さあ、話すことくらいですかね」
俺は頭を抱えた。「まいったな」と思った。

彼女を1時間レンタルしたのはいいが、
どうにもお金がなければ触れることすらできないらしい。
呼んでからそれに気づいた俺を、誰でもいいから大バカ者と言ってくれ。
「どこかに行きますか?」とパンダが言った。
「いや、移動してる時間がない」
腕時計を見たらもう10分ほど経っていた。
「それじゃあ、なにか面白い話をしてください」
パンダは足を伸ばして、こっちを見た。

少しだけ考えて「ないな」と俺は言った。
「つまらない人ですね」とパンダは眉を顰めていた。
そのときほど、自分がくだらない人間だと思ったことはなかったな。
まあ、そんな生き方をしてきたんだから仕方ないんだけどさ。
それからは、俺達はだまってベンチに座って、駅前の噴水を眺めていたんだ。
で、しばらくぼーっと何にも考えないでいた俺は、
知らない女と二人でこうして一緒にいることに、無性に笑いそうになった。
「俺、こんなところでなにやってんだろ」って思ったな。

突然、パンダが「あのですね」と言った。
遅れて俺は「なに?」と答えた。
「本来ならば、相手のことを好きになるっていう過程には、たくさんの時間が必要なんですよ」
はあ、と俺は気の抜けた返事をした。
「それが、メール一通で恋人同士になるなんて、なんだか不思議な気分になりますね」
少しだけ考えて俺はあたまをかいた。「俺達って、恋人だったか?」
「この時間だけは、私はあなたの彼女ですよ」パンダはさらりと答えた。

そこからは、なぜだかパンダと話せるようになっていた。
ぽつぽつと会話が進むごとに、俺はパンダに心を開き始めていた。
「恋人になったら、なにをするんだろうな」と俺は問いかけてみた。
「キスとかしますよね。ほら、あんな風に」
パンダが指さした先には、二人の男女が抱き合って唇を重ねていた。
「色んな人が見ている中で、あんなこと出来るんだな」
「そういうのが楽しいんですよ、きっと。分かってないですね」
俺はパンダの方を見た。彼女はじっとその二人を眺めていた。

「常識を考えたら、家でやる方がいいんじゃないのか?」と俺は言った。
「そういうことを言うから、つまらない人間になるんです」
彼女の言葉に、ぐっと息を詰まらせた。
「あなたは常識だとかそういうものに、とらわれすぎなんですよ」
パンダはまだ向こうの二人を見ていた。
「人生の楽しみ方を教えてくれる人がいなかったんだよ」と俺は文句を言った。
そのときパンダはようやくこっちに顔をむけて、いちどだけ溜息をはいた。
「それじゃあ、今から私とキスをしますか?」

なに言ってんだ、という声は喉元でとまった。
代わりに俺は「冗談だろ?」と言った。
彼女は三本指を突き出して「追加料金をもらえれば」と答えた。
「なら、やめとく」俺は首を振った。「なんか、負けた気分になる」

「そうですか。それは残念です」と言うと、彼女はすっとベンチから立ち上がった。
俺が見上げると、パンダは「時間なので帰ります」と言った。
なんだかんだで、ちょうど一時間ほど経っていたようだった。
彼女となにを話したのかなんて、あまり覚えてはいなかったけれど、
どうしてか俺は後ろ髪をひかれた気分を味わっていた。
それから、喉もカラカラに乾いていた。

「なあ」と俺は言った。
「なんですか」彼女は振り返ってこっちを見た。
「いつもこんなふうに誰かと話しているのか?」
パンダは不思議そうな目つきで俺を眺めていた。
「私、今日がはじめての仕事でしたよ」

俺は「そっか」なんて適当な相槌を打った。
「なにか問題でもありましたか」彼女は俺に訊いた。
問題ばかりだったような気もするが、
それらをぐっと飲み込んで、「楽しかった」と俺は言った。
パンダはちょっとだけ驚いた素振りを見せて、
そのあとに「良かったです」と笑っていた。
彼女の笑う顔を今日初めて見たけれど、
どうにも悪い気はしなかった。

それ以来、俺は駅前のベンチで彼女と話すようになった。
もちろん、5000円で買える1時間だけでしかなかったけれど、
まあそれでも案外と俺は彼女と会うのが嫌いじゃなかったんだ。
いや、嫌いどころか結構心地よかったんだろうな。
それまで人と何かを話すなんて苦手だと思っていたんだが、
俺が間違っていることを言えば彼女はいつだって突っかかって来たし、
ベンチのそばにやって来た大道芸人を見て一緒に驚いたり、
天気のいい日は空を飛んでいく鳩の数をかぞえたりもしたな。
きっと、そういうのが俺は楽しかったんだ。
彼女と手を繋ぐことすらできなかったけど、
金で買ってる時間だってことも知ってるけど、
それでも俺はずっと満たされてたんだよ。

そういや、パンダのことについて知ったことがたくさんある。
俺よりも歳が一つ下だってことから、
自分が死ぬまで仲良くするって決めた親友がいるってこと、
旅行が好きなこと、よく本を読むこと、
将来の夢が学校の先生だってことまで、色々教えてくれた。
で、俺は気づいたんだ。
そうなんだよ。コイツ、普通に良い人生を送ってきてたんだよ。

正直に言えば、こんなバイトをしてる奴は、
想像を絶する人生を送ってきてるんじゃないかとか思ってたんだ。
彼女がなにか隠してるんじゃないかと思ってたんだ。
それで、俺は思い切って聞いてみたんだ。
「なんでこんなアルバイトを始めたんだ?」

少し考えるそぶり見せて、それからすぐに「母が再婚したんです」とパンダは答えた。
あーそういうことか、と俺が言うよりも先に彼女は言葉をつづけた。
「それ自体はどうだってよかったんです。
母がやっと幸せになってくれるのなら、それでいいやって」
「でも、私、自分の名前が変わっちゃったのが意外にもショックだったんです」

「名前?」と俺は聞いた。
そういや、会ったばかりの時にそんなことを言ってたな。
「病院とかそういう場所で名前を呼ばれるたびに、変な違和感があって。
まるで自分が自分じゃなくなっちゃったみたいな、そんな感覚、分かりますか?」
俺は目を逸らして、小さく首を振った。

「これまであんまり自分のことで悩んだこととかなかったんですよ」
そうだろうな、と俺は心のなかで相槌を打った。
「だから、その悩みがずっと付きまとって、離れなくて」
「それで、いっそ悪いことをして忘れてしまおうって思ったんです」

「それがレンタル彼女か」俺は口元を抑えて笑った。
「笑わないでくださいよ。悪いことなんてやったことなかったんですから」
彼女はむくれた顔でそう言った。
俺は笑うのをやめなかった。そうしてるうちに彼女も笑い出した。
駅前のベンチで、二人して腹を抱えて笑っていたんだ。

その日は、それで解散となった。

家に帰ってから、俺はどうしてかうまく寝れなかったんだ。
布団に寝転がりながら、ずっと彼女のことを考えていた。
「悪いことをしたかった」と言ってレンタル彼女をはじめて、
俺と借り物で付き合って、それでパンダは満たされたんだろうか。
俺にはそんな風には思えなかった。
彼女は、まだ“悩み”に取りつかれてるんじゃないだろうか。
だとしたら、どうすれば彼女はそれを取り去ることが出来るだろう?

結局、俺は夜更けまで頭を抱えた。
そのかいあって、ひとつだけ、閃いたことがあった。
それは、つまらない人間の、くだらない思い付きだった。
だけど俺はそれを彼女のためにやらないといけなかった。
なんとなく、そう思った。理由なんてものはなかった。

その日は、夕暮れ前に彼女を呼び出していた。
駅前はあまり人がおらず、俺たちがベンチに座っているだけだった。

「悪いことをしよう」と俺はベンチに座る彼女に言った。
「なんですか、突然」と彼女はこたえた。
「オリジナルデートプランだよ」俺はiPhoneの画面を見せた。
「はあ、そんなものもありましたね」彼女は呆れた声をだしていた。

「なにをするんですか?」彼女は首を傾げていた。
「二人乗り」俺は駐車場にとまっている原付を指さした。
「……犯罪ですよ?」
「だから、悪いことだろ」
「あなた、頭が悪いんじゃないですか?」彼女は溜息を吐いた。
「そうかもしれない」俺は頬をかいた。

「コレに乗るんですか?」彼女は眉を顰めていた。
「ああ、落ちないようにしがみついてくれ」
「まさかそれが目的ですか」さらに眉を顰めていた。
「だったらどうする」
「犯罪者ですね」
「これからお前も共犯者になるんだよ」
俺はヘルメットを渡した。
嫌そうにそれを被ったパンダがこっちを見た。
「……似合ってます?」
「まあまあだな」

二人して原付にまたがってから、パンダが聞いた。
「警察につかまったりしないんですか?」
「たぶん」と俺はこたえた。「この時間帯はネズミ捕りがあまりいないんだよ」
「あまり」パンダは俺の言葉を繰り返した。
「たぶん走ってる車も少ないだろ。ほら行くぞ」
「あっ」
俺はエンジンをかけた。乾いた排気音が鳴り響いた。

走っている間、彼女は俺の背中にしがみついていた。
思えば、パンダと触れ合うのはこれが初めてかもしれない。
ときどき、彼女はもぞもぞと掴む位置を変えていた。
それが無性にくすぐったかったが、それでも俺は何も言わずに走り続けた。
パンダに追加料金について聞く気持ちにはなれなかった。
そもそも持ち合わせは5000円しかなかったんだ。

「風が気持ちいいですね」後ろから声がした。
「夕方だからまだ暑さはマシだな」
「なんだか空に向かって叫びたくなりますね」
「だったら叫んだらいい」
俺がぐっとアクセルを吹かせると、
パンダは大きな声でなにかを叫んだ。

どこまでも伸びていくような声が途切れた後、
息を切らした彼女は「案外いいですね、こういうの」と言った。
「ああ、悪くない」俺は笑った。

「それで、どこまで行くんですか」しばらくして、彼女が聞いてきた。
「あの山まで走るつもりだ」俺はまっすぐと前を見つめていた。
「なにをするんですか?」
「だから、悪いことだって言ってるだろ」
「これ以上、悪事を働くのはやめてください」
彼女の腕がぎゅっと俺をしめつけてきた。
「もしかして、楽しんでないか?」
「……まあ、それなりに」

山の麓まで走り終えて、近くに原付を止めた後、俺は目線を上げた。
「さて、登るか」
「正気ですか?」彼女は立ち入り禁止の立て看板を指差した。
「まあ、それなりに」
「……言っときますけど、似てないですよ」
「知るか」俺は山を登りだした。
彼女も渋々といった感じで俺の後ろについてきた。

「なにか面白い話をしてください」
道中しびれを切らしたパンダがぼそりと呟いた。
「そうだな」俺は足を止めた。
「……原付で二人乗りしたときの罰金額って知ってるか?」
「さあ、気にしたこともなかったです」
「一人当たり5000円みたいだ」
「割とするんですね」
「ああ、割とな」俺はパンダを見て、肩を竦めた。

山頂にたどり着いたとき、もうすっかり日も落ちていて、あたりは真っ暗だった。
俺は、目を凝らすと、いつもの場所にどさりと身を投げ出した。
「ここは夜景がよく見えるんだ」
「もしかしてそれが理由ですか?」彼女はそう言って隣に座った。
「だったらどうする」
「別に、どうもしないですけど」
「そうか」
俺たちはしばらくチカチカと光る街を見下ろしていた。


「……今日は、楽しかったです。とても」
ふいにそんなことを言ったものだから、俺は横目で彼女を見た。
「あなたのこと、すこしは見直しました」
俺は何も言わずに黙っていた。
どうしてそう思ったのかは分からないけれど、
その瞬間の俺たちは、見ているものや考えていることが、
全く同じなんじゃないかと感じたんだ。
鈴虫の声や夏の夜空がやけに近くて、それで、彼女の横顔はとても綺麗だった。

「あのさ」彼女は「なんですか」と答えた。
「お前ってなんのために生きてるんだって、昔言われたことがあったんだ」
体を起こした俺は、古い記憶をひっぱり出すために目を細めた。
「多分、バイト先の先輩だったかな。趣味や好きなことがなくて、
ただ何と無く毎日を過ごしていた俺は何も言い返せなかったよ」
「情けないですね」
ああ、情けないな。俺は苦笑した。
「でもさ、今なら分かるよ。俺がなんのために生きてたかってことを」
彼女は俺の顔を見た。
「そういうことを教えてくれたんだ、きっとさ」

思い返せば、俺の人生なんてものを振り返ってみても、
彼女と出会ってからの時間には到底敵わないのかもしれない。
そんな風に、今なら思えてしまう。
「昨日の夜、とても馬鹿げたことを考えていたんだ」
「どんなことですか?」
「もしも、俺たちが借り物じゃなくて、本当の恋人になれたら、そしたらどうなるだろうって」
「……」
「それで、いつか二人で暮らすことになったら――」
「私の名前、変わっちゃいますね」
彼女の表情は読み取れなかったけれど、きっと笑っていたと思う。
「悪くない提案だろ?」
「……それは愛の告白ですか」
囁くような声に、俺はおもわず喉を鳴らした。

「だったらどうする」
こうします、彼女はそう言って俺の頬に唇を寄せた。
「忘れちゃいましたか。1時間を超えたから、
私たちはもう借り物の恋人ではないんですよ」照れくさそうに彼女は言った。
俺は軽く頭を抱えた。「まいったな」と思った。

“きっと二人は同じことを思っているだろう”という妄想は、あながち間違いじゃなかったみたいだ。

俺たちはすっかり暗くなった山道を、手を繋いで下った。
あの駅前まで彼女を送った後、俺たちは向かい合って別れを言い合った。
「それじゃあ、また」
「ああ、またな」
「あの」彼女は俺の袖を掴んだ。
「どうした?」
「……いえ、やっぱりいいです」
それから彼女は「また会いましょうね」と言った。
俺は小さく頷いて、彼女の後姿が消えていくのを眺めていた。

俺とパンダが話したのは、それが最後だった。

――あれから、三年が経った。
それだけの時間があれば、取り巻く環境も、俺自身も、すべてが変わってしまったはずだった。
……とは言うものの、相変わらず俺という男はくだらない奴だった。
いや、自分で言うのもなんだけどさ。まあサラリーマンとしては、それなりに社会に貢献していたわけだ。
話を戻そう。あの日以来、ぱったりと連絡が付かなくなったあいつについてだ。
彼女に何があったのか、どんな理由があって突然バイトを辞めてしまったのか、
そんなことを俺が知ることは出来なかったが、なんとなく理由は分かっていた。
彼女は、一度、ぜんぶをリセットしたかったんだと思う。
俺と出会った経緯を、自分のしたことを、“悪いこと”をした過去を精算したかったんだろう。
だから、俺の元から姿を消した。それが、俺が出した結論だった。

俺はもう半分諦めていたんだ。
彼女を探そうとも思ったけれど、彼女について何の手がかりもなかった。
だけどそれでも諦めきれずにいたのは、
「また会いましょうね」という言葉があったからだった。
毎日のように彼女のことを考えていたよ。情けないことにさ。
だから俺の祈りが通じたかのように、
宛先の分からない一通のメッセージが届いた時、俺は目を丸くしたな。
なんたって、そのメッセージには随分と見覚えがあったんだから。
『15:00に、駅前に来てください』

俺が急いで駅前に向かったとき、そこには一人の女の子がベンチに座っていたんだ。
髪も短くなっていたし、顔立ちも随分変わっていたけどさ、
その子はカバンにパンダのキーホルダーを付けていたんだ。
おもわず、たくさんの言葉が頭に溢れかえって大変だった。
俺はそれらを飲み込んで、彼女の前に立った。
「お久しぶりですね」
彼女は柔らかい表情を見せた。
「……色々と言いたいことがある」
「そうですね。私もたくさん話したいことがあります」
彼女はそう言って目を伏せた。

「色んなことがあったんだろう」
「はい、色んなことがありました」
「あいにく、今日は5000円しか持ち合わせがないんだ」
俺は彼女の隣に座った。「手短に頼む」
彼女は驚いた素振りを見せて、それから、小さく頷いた。
「それじゃあ、まずは、私が先生になるまでの話をしましょうか――」
彼女は目を閉じて、ひとつひとつ嬉しそうに話し始めた。
きっと1時間じゃ足りないだろうな、と俺は目を細めて笑った。